FC2ブログ
スポンサーサイト

--.--.--(--)

『スポンサー広告』 Comment-Trackback-
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

pagetop ↑

今年最後の更新

2011.12.31(Sat)

『思うこと』 Comment(0)Trackback(0)
どうも。今日は自分の部屋の片付けをしたりしていました。大晦日なので、ざっと今年一年を振り返りたいと思います。

今年はやはり、あの震災が大きかったですね。一週間水道も電気もない中、庭で七輪を使って煮炊きをしたり、その後も何時間もスーパーに並んだりと、様々な体験がありました。震災のボランティア活動にも何度か行きました。大学のなかでは出会えないような人たちと活動できたように思います。

5月からは授業が始まり、夏休みはテストの代わりのレポートが大量に出て、博物館の実習もあり大変でした。夏の京都は暑かった。いろいろ名所をみたり、古本屋をめぐることも出来たので、結構楽しかったけれど。夏休みが終わってからは、就活が迫ってきて、自己分析だの、SPIだのいろいろしたなあ・・・。まあ、これからが山場なんだけどねw

そういえば6月から始めたバイトのおかげなのか、だいぶ痩せました。元日もみっちり7時間バイトです・・・。

来年は就活がなにより大事になってくると思います。内定が出るのか、出ないのか、それが問題だ。卒論もなんとか書き上げたいと思っています。来年は一次史料に当たってみないと。四年になったら、取る講義も少なくなるし、図書館でのボランティアも終わってしまうので、結構暇が出るかもしれない。就活と卒論にその時間を割くのは当然だとしても、トーイックの勉強なんかもしてみたい。世界史や労働法、社会政策などにも心惹かれるものがあるから、関連した本を読んでみたい。

さていろいろ書いてきましたが、これが今年最後の更新となります。それでは皆さん、良いお年を。
スポンサーサイト

pagetop ↑

「コミュニケーション能力」というファシズム

2011.12.29(Thu)

『思うこと』 Comment(0)Trackback(0)
どうも。最近は三つの異なる合同説明会に計四日、行って来ました。いやー、どれも人が多過ぎましたね。
人気の大企業のブースは人が通れない有様でした。僕は事前に目星をつけていた企業を中心に回りました。「一日で十社は企業のブースを回ろう!」という暑苦しいキャッチフレーズのついた主催者側のパンフをもらったのだけれど、十社も回れる時間も、必要もないよなあと思った。実際、この三つの合説で回った企業は二十社もいってません。他の学生はどうだったのかなあ。そもそも、合説に行く必要はないという人もいるけれど、あの混雑ぶりを見たら確かに頷ける気もする。というか合説の後にバイトが入っていた日が二日あって、しんどかった…。

企業の求める人物像とか、求める能力としてよく言われるのが「コミュニケーション能力」。今まで何度も聞いてきたし(これらの合説でも聞いた)これからも嫌というほど聞くであろうこの言葉。まさに魔法の言葉ではないのかな、と思う。「コミュニケーション能力」が人間を見る基準として社会で重要度が増している今日、僕はこの言葉に対して、強烈な違和感を感じざるを得ない。「コミュニケーション能力」とは何であるのか、ということはさして重要ではない(むしろこうした問いかけが成立するか否かが重要)ので、ここでは触れないことにしたい。「コミュニケーション能力」がある人間が各人(各社)各様の定義によって想定されるとき、その対立項として、「コミュニケーション能力」のない人間もまた想定される。「コミュニケーション能力」という言説の問題はまずここに存する。いかなる定義での「コミュニケーション能力」であれ、その能力の無い人間(と想定された人間)は切り捨てられてしまう。こうした「切り捨て」が「コミュニケーション能力」から引き出されてしまうという矛盾に、まず気が付かなくてはならないだろう。

そして次に、各人(各社)各様の定義による「コミュニケーション能力」に対する問いかけの余地がないことが問題である。仮に「コミュニケーション能力って何ですか?」という問いに対して「コミュニケーション能力とは○○です」というまるで公式のような回答が同じ人から何度も返ってくるときも、最早先の問いかけは成立していないに等しいと思われる。要するに、「コミュニケーション能力」という言葉そのものが、もはやその意味に先行してしまって、人々の思考がそこで完全にストップしてしまう。自分の定義を押し着せただけの「コミュニケーション能力」も、都合が悪くなって、ともかくこう言っておけばいいや、という時発せられる「コミュニケーション能力」も基本的には同じことなのである。それは意味の抜け落ちた空語ではあるが、人々の目をくらませてしまう「魔法の言葉」なのだ、と言うことはできないだろうか。(逆説的に言えば「魔法の言葉」だからこそ、一定の基準として絶大な力を持つわけである。)

「魔法の言葉」は人々に降りかかってくる。それは一つ一つの問いかけを次第に潰していく。「コミュニケーション能力」は意味の揺らぎがないだけに、だんだんとその言葉そのものが多くの人に唱えられ、大きな力となっていく。これは一種のファシズムではないだろうか。戦時中の「掛け声」とよく似ていると思うのは、僕だけだろうか。

ではまた。

pagetop ↑

気付けば12月も半ば

2011.12.14(Wed)

『思うこと』 Comment(0)Trackback(0)
どうも。この前皆既月食だったらしいですが、ベランダから夜空を見たら雲が垂れ込めていて見えませんでした。残念。

さて、もう今年も二週間ほどで終わるということに今更気付いてびっくりしてます。今日とある講義で「今日で今年最後の講義です」と教授が言ってて慌てて手帳を見たら、確かにそうで、来週水曜から冬休みになるようだ。冬休みも夏休み同様、「休みではあるが休みでない」状態になりそうです。というのは、合同説明会、ゼミ課題、テスト勉強、バイトがあるため。年末年始は勉強とバイトで終わる予定。親から年賀状の作成が頼まれているのだけれど、それどころではないかもなあ。

ところで、マイナビの適職診断の中の、パーソナリティ診断(性格診断のようなものなのだと思う)結果にこんなことが書いてありました。

「自分と他者を分けて考えるタイプです。自分のことは自分で責任を持つという意志が強く、他人に干渉されることを好みません。また自分からも人に干渉することを好みません

「自分のことは自分で責任を持つという意志が強」いかどうかは置いといて、後の所は自分でも結果を見たときにびっくりするほどぴったりでしたwチームワークとか協調性がゼロということなんでしょうかw

うーん、やっぱりこの前ブログに書いた、『二十歳の原点』のあの詩に心惹かれるのは、こういう性格のためでもあるのかねえ。

今年あと何回更新できるか分かりませんが、ではまた。

pagetop ↑

金というもの

2011.12.01(Thu)

『思うこと』 Comment(2)Trackback(0)
どうも。刻一刻と就職戦線が近づいてます。大震災や円高などの影響で経済状況が極めて悪そうだ、ということは世間知らずの僕でもうすうす気付いている今日この頃。さて、どうやら12月末には数々の業界研究セミナー(準合同説明会?)があるので行ってみようかと思います。

エントリーシートや面接では「学生時代に壁にぶつかり、それを乗り越えた経験」を必ずといっていいほど聞かれると、耳にタコができるほど聞きました。同じような系統の質問で、「壁」ではなく「ハードル」という表現もあったけれど、ふと某掲示板のこんなレスを思い出しました。

「ハードルが高ければ、その下をくぐりぬけろ」

前置きはこのぐらいにして、本題はお金の話です。就活が近いせいかお金のことばかり考えてます。就活ではどれぐらい費用がかかるのかとか、(できるかどうかは別として)就職後の給料の使い道はどうするのか、ということです。まあ、そんなことを今考えた所で杞憂なのかもしれないけれどね。

少なくとも今の僕にとっては「お金が欲しい」というのは健全な欲望ではあります。多少金銭に余裕があり、まずまずの靴や服が買え、4、500円程度の昼飯が食べられ、古本屋にでも行って本を買い、喫茶店で週に何回かコーヒーが飲めるような生活がしたいと考えたりもします。そしてなによりも日々の生活の維持のためにお金が無くては何も始まりません。しかしそれ以上にお金を使いたいのかどうかは自分でも分からなくなります。もちろんお金があったらどんどん使ってやりたい、という衝動が起きるときもあります。しかし冷静に考えてみると、そんな大金を使う勇気なんぞ僕には持ちあわせてはいないし、「ああ、もうちょっとお金が欲しいなあ」と思っている生活の方が、実は幸せなのかも知れないと思うわけです。(よく、「腹八分目」と言われるように。)

あと、あくまで僕自身の考えですが、お金というものは自分の好きなものだけに使うのではなくて、何かしら自分にとってプラスにかえってくるように使うのが、一番賢い使い方のように思います。つまり自分の好きなことで快感を得るためだけでなく、自分にとって何かを克服して成長することにお金を使ってもいいんじゃないかなあ、と思うのです。

でも、自分にとってプラスになるように、言い換えれば自己の成長に資するようにお金を使うのはやっぱり難しいことだなあ、と思う。仕事をした報酬として賃金が支給されるのは自明の理だけれども、自己が成長したところで報酬は何もないし、自分の好きなことをしているときのように、分かりやすくて安易に手に入れられる快感はないからだ。(場合によっては尊敬という報酬を受けるかもしれないし、自己満足感という報酬もあることはある)しかしこれらの場合、報酬を受け取ることを目的とするのなら、自己の成長はあくまでその手段に留まり、仕事となんら変わる所が無い。よって真に自覚するなら、自己の成長を自己目的化しないといけなくなる。つまり自己を死ぬまで成長させることが人生の目標となるのだが、死ぬまでその目的が変わらないとは断言できないのだ。

「何かしたら報酬がもらえる筈」という考え方から人が自由になるのは難しいんじゃないかなあ。その考え方は資本主義社会が生み出したのが先なのか、それとも人間の本性に基づくものなのかは分からないけれど。

ではまた。

pagetop ↑

▼ プロフィール

マンボウ

Author:マンボウ
25歳/男/大卒
民間で2年働いた後、1年半ほどバイトしながら勉強し公務員となる。
趣味は読書。

▼ 最新記事
▼ 最新コメント
▼ 最新トラックバック
▼ 月別アーカイブ
▼ カテゴリ
▼ FC2カウンター
▼ 検索フォーム
▼ RSSリンクの表示
▼ リンク
▼ ブロとも申請フォーム
▼ QRコード
QR

pagetop ↑

Copyright © 2011 マンボウ all rights reserved.
Powered By FC2 blog. Designed by yucaco.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。